聾唖偉人(江戸時代以前)


青木 木米 (あおき もくべい) (1767-1833) 

 

通称は木屋佐兵衛、幼名は八十八(やそはち)。江戸後期を代表する京焼の聾名工。1767年、京・白川鴨川合流点の茶屋「木屋」で出生。少年時代に高芙蓉門に書画を学ぶ。1796年(29歳)木村蒹葭堂のもとで「陶説」を読んで感銘を受け職業陶工を志す。1824年(57歳)耳が不自由となる。印刻に聾米の印を初出し、聾米の号を使い始めた。頼 山陽(らい さんよう)によれば、「火候を観察するに至っては、耳を窯に附し、窯炸して聾を得」とのことで、耳を窯にくっつけて火の加減をみたのが原因だという。陶技のほか書画詩文にもすぐれ、南画では、『兎道朝暾図 (うじちょうとんず) 』などが有名。1833年逝去。享年67歳。

 

参考文献 

満岡忠成(1990)「木米」『日本陶磁大系』25,東京:平凡社.

杉田博明(2001)『京焼の名工・青木木米の生涯』東京:新潮社.


鈴木 牧之 (すずき ぼくし) (17701842) 

 

号は牧之、幼名は弥太郎。江戸時代後期の聾随筆家。1770年、越後魚沼郡塩沢町(現・南魚沼市)で出生。鈴木屋は代々縮仲買と質業を営む。1788年(19歳)縮八十反を売るために江戸に出たが、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。1790年(20歳)に耳中の塊を除くため砒霜石という毒薬を耳に入れ百余日病床に伏す。50歳から耳が遠くなり江戸の良医に診てもらったが効果なし。その年に法螺貝を当ててみたところ、具合が良いのでそれ以来常に小螺を袂に入れて用い、自ら螺耳道人とも称する。1837年(67歳)『北越雪譜』初版3巻を刊行、続いて1841年(71歳)にも4巻を刊行。1842年逝去。享年73歳。

 

参考文献 

新潟県教育委員会 (編)(1990)『鈴木牧之資料集』復刻版(1961初版)鈴木牧之顕彰会.

塩沢町文化・スポーツ事業振興公社  (編)(1994)『図説 牧之』.


谷 三山(たに さんざん) (18021867)

 

号は三山、通称は新助、後は昌平と改名。吉田松陰が師と仰いだ、大和八木の盲聾儒者。1802年、大和八木(現・奈良県橿原市)に出生。1812年(10歳)に耳目を患い聞こえなくなり、3年後に全聾(13歳)となる。1829年(27歳)兄と携えて京都に上り、諸学者歴訪し猪飼敬所と筆談。家塾を開いて子弟の教育に当たる。1847年(45歳)森田節斎と三日三晩にわたり筆談で対談した。その記録が『愛静館筆語』として残っている。1849年(47歳)視力を失い、1862年(60歳)にほとんど失明したが、読書によって得た海外事情の知識に基づく尊攘の熱情は、多くの子弟に深い感化を与える。1853年(51歳)松陰が大和滞在中に節斎の紹介で三山を訪ねて教えを請う。1867年逝去。享年66歳。

 

参考文献 

大伴 茂(1936)『聾儒谷三山』東京:平凡社.

堀井義治(1961)『伝記 谷三山』谷三山百年祭記念事業推進会.

田中俊資(1967)『維新の先達 吉田松陰』松陰神社維持会.

卜部和義(編)(1974)『谷三山と吉田松陰の出逢い』谷三山遺徳顕彰会.

野木将典(1992)『校注 愛静館筆語』東京:近代文藝社.

谷山正道(編)(2017)「谷三山、師の師たる人。」『2016 NARA-EURASIA Institute's Report:2「谷三山研究会」調査研究レポート』奈良県立大学ユーラシア研究センター.


柳沢文渓 (やなぎさわ ぶんけい) (18151884)

 

ろう師匠 1815年江戸に生まれる。甲斐国の聾者の寺子屋師匠。幕臣柳澤豊後の子の淳吾として江戸に生まれる。若い時から幕臣としての教養を身つける。26歳の時、病のため聾者となり出奔、妻ふさと共に流浪の果てに岩波に住み、筆談により手習師匠をつとめた。筆子(生徒)800名、門人(弟子)100名を有したという。果ては村人の訴訟相談から、荒廃する村の復興への指導者となる。1884年逝去。享年69歳。

参考文献

高橋敏(2007)『江戸の教育力』高橋敏著 ちくま新書

裾野市史編纂専門委員会(1996)『裾野市史 第3巻資料編近世』

深良地区郷土資料館運営委員会(2004)『深良郷土誌』


宇都宮 黙霖 (うつのみや もくりん) (18241897)

 

号は黙霖、幼名は采女(うねめ)。吉田松陰に偉大な感化を与えた、安芸の聾僧。1824年、安芸国賀茂郡広村長浜(現・広島県呉市)に出生。幼少より学問を好む。1843年(19歳)出家。1845年(21歳)に大病により耳は聞こえず口がきけない身となり、筆談をもって勤王を唱え、諸国を歴遊する。1855~56年(31歳)吉田松陰と書簡による尊王討論がおこなわれる。安政の大獄にあたり藩牢に繋がれたが僧籍ゆえに死罪を免れる。しかし、その後も討幕に動いたため第二次長州討伐のさい再度投獄。1869年に許され、のち湊川神社などの神官を歴任し、晩年は呉に隠棲。1894年、来広中の総理大臣伊藤博文に招かれ懇談。1897年逝去。享年74歳。

 

参考文献

吉野浩三(1936)『宇都宮黙霖畧傳』故宇都宮黙霖先生顧彰會設立準備委員會.

知切光歳(1942)『宇都宮黙霖』東京:日本電報通信社出版部.

川上喜蔵(編)(1967)『宇都宮黙霖 吉田松陰 往復書翰』東京:錦正社.

田中俊資(1967)『維新の先達 吉田松陰』松陰神社維持会.

村岡 繁(1968)『吉田松陰と僧黙霖-思想の対決-』松陰遺墨展示館.

大尾博俊(1997)『黙霖物語-きさらぎの花は開いて-』宇都宮黙霖研究会.


 令和元年(2019年)5月10日 更新